OBON捜索班工藤の手記/佐賀県で戦没者遺霊品を返還(Returning the remains of the war dead in SAGA)
2022-10-14
OBON捜索班工藤の手記/佐賀...

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令和4年10月11日、佐賀県神埼市脊振にて同地区出身の日本兵「佐藤守男」命の日章旗返還式を執り行うべく九州へ向かいました。私の住む北海道札幌市からは2300kmの道のりです。北海道の山間部はすで初冠雪を迎え、平野部でも冬の到来を告げる「雪虫」が飛び交っています。もう何日もしないで初雪が地面を濡らすような季節です。佐賀県はようやっと秋が深まり山間部では栗が道路を転がり、柿がその重みに耐えるように枝をしならせておりました。

佐藤守男命はこの豊かな脊振の土地を昭和15年に離れ北京、朝鮮と戦線を渡り歩き昭和18年にニューギニアの東部「スリナム」にてその命を散らされました。故郷の脊振から実に4700kmも離れた場所でした。佐藤守男命の所属された歩兵第78連隊は当時、転進を繰り返す51師団の撤退を援護すべくニューギニアに行ったそうです。この78連隊の記録は連隊史が残されているものの一兵卒の記録を辿るには十分なものでは無かったと防衛研究所の研究員が教えてれました。

隊は昭和18年当時の東部ニューギニア戦線でオーストラリア軍と激しく交戦していたようで、推測ですがこの佐藤守男命の日章旗も当初はオーストラリア兵の手によって持ち帰られたのではないかと考えています。それがどのような経緯で米国はニューメキシコ州の軍事博物館に展示されることになったかは今となっては知る由はありません。

佐藤守男命が脊振を離れてから82年越しの帰還という事です。途方もない年月と距離を費やしこの日章旗は故郷へ還られました。ご英霊の強い望郷の思いが叶ったのだと思うと本当にこの活動をしていて、その手助けを出来る喜びが溢れてきます。

返還式は佐賀県神埼市の脊振にある「鳥羽院山荘」にて執り行われました。この鳥羽院山荘はかつては集落の小学校だったそうです。会場も小学校の面影を残す教室を2間つなげて作られました。かつては集落の子供たちがここで学び、遊びそして巣立って行ったんだと感慨にふけってしまうような人里離れた山あいの会場でした。敷地内には「鳥羽院の名水」と呼ばれる湧水が湧き出ており、昔はこの水で給食も作られていたそうです。今も地元の人はもちろん、市内からもこの水を求めて多くの人が訪れるそうです。

返還式は佐賀県遺族会、松下事務局長の司会進行で行われ、返還関わった方々の紹介や佐賀県遺族会山口会長そして國松善次元滋賀県知事(OBONアドバイザー)と日本遺族会水落敏栄会長のメッセージが読まれました。それからOBON米国本部の共同代表、そして旗を提供して下さった方々の動画メッセージが放映されました。動画の中では米国ニューメキシコ州軍事博物館でのセレモニーの様子も映されました。

ニューメキシコ州軍事博物館側はこの展示物をOBON に渡す際にそれはたいそうな式典を催してくださいました。軍服に身を包んだ州兵が白い手袋で旗を扱う仕草には戦没者へのリスペクトが感じられ、軍の音楽隊が君が代を演奏し、旗を私たちに託して下さいました。鳥羽院山荘の参列者も食い入るように州兵の旗を扱う所作を見ていました。実際このように式典まで開いて私たちOBONが旗を預かることはほとんどありません。それだけこの旗は米国側にとっても博物館にとっても特別なものであったのだと感じました。旗を戦没者そのものとして敬意を持ち送り出してくださいました。

旗を受領されたご遺族は兵士の実弟の奥様でいらっしゃいました。御年80歳の佐藤淑子さんは旗を受け取られ「義兄の遺品は何一つ残されておらず、出征前に撮られた写真(遺影)が守男さんを偲ぶ唯一のものだった」「主人(兵士実弟)と顔が似ていて親近感を持っていた」と、会う事の無かった義兄に思いを馳せていらっしゃいました。
旗はすぐに会場の黒板に掲揚され旗の横には署名された方々の署名者一覧が貼りだされました。返還式に参列された地域の人は旗や署名を指さし、知った名を見つけその方々の思い出を語られました。「だれそれさんのお父さんや」「この方は長生きした」「この人は戦争いかれたんでしたかね。。」など、その集落ではどの方々にも各々繋がりがあり、思い出があり、僕はこの地域の人たちが話す内容や佐賀弁に耳を傾け「本当に返還出来て良かった」としみじみと思いました。

閉会後はマスコミがご遺族や旗、そして集落の皆さんにカメラやマイクを向け返還された旗について、当時の集落について色んな質問を投げかけられていました。この集落というか佐賀県にとっても、日本全国にとっても非常に大きな返還式であったと思います。
この集落からは実に23人もの戦没者が出ており、小学校(鳥羽院山荘)の裏山にはこれらの英霊をお祀りする墓群がありご遺族と地元遺族会の方々、マスコミと皆でこの墓をお参りに山を登りました。高低差の大きい登りに淑子さんは「ここは来た事が無かったし、一生でこれが最後だから」と足を奮わせて一所懸命に山を登られました。息が上がり切ったところでようやく整然と並ぶ23基のお墓にたどり着き「佐藤守男」命の墓前に手を合わせ旗の帰還を報告いたしました。墓石には戦没場所、享年、階級と彫られておりそれをなぞる様に見られ淑子さんはうっすらと涙を浮かべていました。

今回の返還には捜索から返還まで実に3年の月日を要しました。本来であれば2019年にご遺族が判明したすぐに返還が出来ていればよかったのですが、コロナウィルスが世界を覆い世界はその活動を3年もの間止めてしまっていました。当初、米国からもこの返還に関わってくれていた博物館関係者、米国最大級の退役軍人会「バターン死の行進」の家族で作られる組織代表者などが来日し、旗を直接にご遺族へ手渡したいと願われていました。しかしこれ以上返還を先延ばしにすることは出来ず、今回催行と相成った次第です。
私含め捜索班の中でも捜索から返還まで3年まで要した旗はそうありません。そして軍事博物館の展示品を返還するなど初めてですし、聞いたこともありません。連合国側から見ればこれは戦争勝利の証、いわば「誇り」なのです。それを壁からおろし返還する事自体前代未聞の行為であり本当の意味での「和解」「友好」の証なのだと関係者は言います。
全米(連合国)にはいまだ5万点以上の日章旗や日本兵の遺品が保管されているとOBONは見ています。これは未だ帰還を果たせずにいる未帰還兵そのものだと私は思っています。一枚でも多くの日章旗や遺品を日本のご家族の元に還らせて差し上げたいと思いを新たに強くする、そういうきっかけになった返還式でありました。この度の返還まことにおめでとうございます。